今日は学生映画のシンポジウムに参加した。
ビデオカメラが一般化し、携帯でも動画が撮れてしまう今、映画は誰でも作れてしまう時代と言える。
同じようにインターネットでの動画配信によりそれを簡単に上映できる。
そんな現在において、映画をつくるということの意味はいったいどこにあるのか。
商業映画ではない学生映画(この区別も意味があるのかどうか怪しいのだが)と見る者をどのようにして
つなげていくのか、そもそも映画を上映することでなにが生まれるのか。
このようなことを映画の監督と教育者、聴講者を交えながらの座談会のようだった。
映画においては私は完全に見る側の立場だ。
学生とはいえ一監督であるかたがたの映画に対する真摯な姿勢に衝撃を受けた。
アプローチの仕方に多少の違いはあれど、どの監督も自身が思い悩んでいる問題の答えを映画をつくることで探しているように思えた。
したがって出来上がった作品は見るものに何かメッセージを伝えたり、共通した感情を残すものではない。
その「言いたいこと」を作者自身が探しているのだから。
しかし、自分の映画をコメントしている彼らは一様にして「表現者」として語っているように見えた。
本当は自分自身と対話するためにつくったものであるはずなのに、彼らの中にある「映画とはこうあるべきだ」という考えがこの矛盾を産んでいるのではないだろうか。映画とは何かを表現しなくてはならない・・という考えが。
ある方が、「映画を撮ったことで表現者になったとは思わないで欲しい。映画を撮ることは表現することではなく探求することだと僕は思う。」とおっしゃっていた。
監督である学生の話を聞いていて、なんだか監督と作品が乖離しているように感じていたわたしはこの言葉で納得した。
これは映画に限ったことではないのかもしれない。
何かを作った=何かを表現している、ではない。
作品とは、ある物事(絵画であったり彫刻、音楽かもしれないが)に対する探求の結果がそこの現れたというだけのことなのかもしれない。
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